ねむたやの歴史について
ねむたやの歴史はここから始まります。
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昭和23年、初代の山下保男(祖父)が
満州から帰って始めた商売は履物と傘の行商でした。
祖父は人と話すのが好きで、人を喜ばせるのが好きだったので
日用品を販売しながら沢山の人とのおしゃべりを楽しんでいました。
満州から帰って始めた商売は履物と傘の行商でした。
祖父は人と話すのが好きで、人を喜ばせるのが好きだったので
日用品を販売しながら沢山の人とのおしゃべりを楽しんでいました。
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昭和26年、綿の行商を開始。
江戸時代「讃岐三白(さぬきさんぱく)」の「綿(わた)」で知られた豊浜町。
この頃豊浜町には沢山の綿屋があり、
祖父のようにそこから布団を買って行商に行く人が沢山いたそうです。
当時の豊浜町で布団に携わる仕事をしている人はとても多かったと聞いています。
江戸時代「讃岐三白(さぬきさんぱく)」の「綿(わた)」で知られた豊浜町。
この頃豊浜町には沢山の綿屋があり、
祖父のようにそこから布団を買って行商に行く人が沢山いたそうです。
当時の豊浜町で布団に携わる仕事をしている人はとても多かったと聞いています。
その頃2代目の、父和伸は…
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『パンでつられ写す 和伸5歳』
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昭和39年、「冨士製綿」という屋号を付けて
布団の製造を開始。
布団の製造を開始。
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国道側から見たらこんな感じ。
今国道沿いの店舗になっているところは
もともと布団の工場だったのです。
今国道沿いの店舗になっているところは
もともと布団の工場だったのです。
昭和50年 冨士製綿に転機が訪れます
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二代目の、父和伸、人工透析開始。
昭和50年
体調を崩していた父は、検査の結果人工透析が必要ということになり
高松市の鬼無大林病院で透析を開始。
このときの父の言葉
「人は食うために生きるものではない
生きんがために食うのである」
「生きるという事は誰の為でもない
自分の為である」
人工透析技術の確立されていない当時、
透析を始める事にはものすごい覚悟が必要だったと聞きました。
昭和50年
体調を崩していた父は、検査の結果人工透析が必要ということになり
高松市の鬼無大林病院で透析を開始。
このときの父の言葉
「人は食うために生きるものではない
生きんがために食うのである」
「生きるという事は誰の為でもない
自分の為である」
人工透析技術の確立されていない当時、
透析を始める事にはものすごい覚悟が必要だったと聞きました。
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退院した父和伸は、2つある工場のうちの道路沿いの方を店舗にする事を決断。
「透析を続けながら卸売りで行商に回るのはしんどい」という理由でしたが
色んな所に顔を出してお喋りするのが大好きな祖父保男に反対され、説得するのは大変だったそう。
いつの時代も代替わりは一筋縄では行きませんね。
「透析を続けながら卸売りで行商に回るのはしんどい」という理由でしたが
色んな所に顔を出してお喋りするのが大好きな祖父保男に反対され、説得するのは大変だったそう。
いつの時代も代替わりは一筋縄では行きませんね。
小売りに転身
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そして、冨士製綿は小売りを始めました。
国道沿いという立地と、時代が良かった事、そして製造直売だったので
比較的安価に提供できた事でお客様に恵まれ、お陰様でお店は毎日忙しくなりました。
国道沿いという立地と、時代が良かった事、そして製造直売だったので
比較的安価に提供できた事でお客様に恵まれ、お陰様でお店は毎日忙しくなりました。
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そして徐々にお店はもっとお店らしくなっていきました。
秀来誕生
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そして3代目である山下秀来が誕生します。
後半につづく…